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世にも恐ろしいファラオの呪い

 この呪いが発動したと思われる例が一つだけあります。そう、世紀の発見と言われた古代エジプト第18王朝第12代目のファラオ、ツタンカーメンの墓の発掘にまつわるファラオの呪いをお話します。
 「この墓に一度たりとも足を踏み入れた者は、余がまるで鳥を襲うようにその者に襲いかかるだろう。そして偉大な神がその者を罰するであろう」

 エジプト古来の伝承によると、王の墓を暴いた者は呪われるという。それが上記の一文である。ファラオたちは墓を暴かれる事によって、永遠の眠りが妨げられることを恐れ、それを防ぐために呪いをかけたのだ。

 ツタンカーメンは10歳にも満たない年齢で即位し、おそらくは宮廷の内部抗争に巻き込まれ、わずか18歳で謎の死を遂げた少年王だ。その少年の呪いとは・・・。

 ナイル川中流の河畔にある”王家に谷”から少年王の墓を掘り当て「ツタンカーメン」の名で封印された玄室に到達したのはイギリス考古学者ハワード・カーターとそのカーターのよきパトロンでもある伯爵にして富豪のジョージ・カーナヴォン卿だ。

 まさしく考古学史上最大の大発見であった。 だが・・・。歓喜に満ちた開封のその日、呪いも機能しはじめた。

  玄室開封から一ヵ月後、カーナヴォン卿が突然、体調を崩して病の床についた。40度もの高熱を発した卿は10日間のわたって昏睡を続け、奇妙なうわごとを繰り返したあげく永眠した。

 果たしてカーナヴォン卿はツタンカーメンの呪いによって殺されたのだろうか?その死はあくまでも寿命であり自然死だったのだろうか?健康とはいえなかった卿が急死したとしても決して不思議ではないかもしれない。

 その後もカーナヴォン卿の死が呪いによるものであることを裏付けるかのように、発掘に関係した人々が次々が相続いて急死、または変死したのである。さらにカーナヴォン卿を看護していた看護師も変死した。不可解な事にファラオの墓を見物しただけの人など王墓に足を踏み入れただけの人々も相次いで急死、または原因不明の死を遂げたりしたのだ。結局、カーナヴォン卿の死からわずか6年間に死者の数は22人にも達したのである。

 ツタンカーメンの墓に足を踏み入れた人間が次々と変死しことについてはこれまでもさまざまな解釈がなされている。もちろん研究者の中にはあくまでも偶然のなせる業だと主張する人も少なくない。それらの人は高齢や持病により死ぬべきして死んだというのだ。しかしファラオの墓に足を踏み入れた直後、また、ごく短期間に多くの人が死んでいるのを考えれば、偶然がかさなっただけとはいえないのではないだろうか?

連続怪死事件の原因についてカイロ大学のエセディン・タハ博士は考古学者などが”特殊な感染症”にかかりやすいことを発見し
「ツタンカーメンの墓にまつわる多くの人々の死は、呪いによるものではなく、それは王墓に閉じ込められた古代の病原体によるものである」と唱えた。
タハ博士によればその病原体は玄室などの密閉された場所で3千年から4千年以上生きつづけ開封された瞬間、足を踏み入れた者たちがその病原体に感染したというのだ。

 同様なものとして、王墓に巣食っていたコウモリの糞に繁殖する寄生虫が原因ではないか。そのほか、エジプト伝来の毒薬説や自然放射能説など連続怪死事件の原因はさまざま取り沙汰された。だがもっとも有力視されているのはいまなお、タハ博士の説である。

 ちなみに、タハ博士は自説を発表後しばらくしてドライブ中に対向車と正面衝突して死亡した。
むろん、死因は交通事故によるものと思われたが遺体を解剖した結果なんと衝突直前に循環器不全のためすでに心停止し亡くなっていたことが判明した。

 博士もまたファラオの呪いの歴史の一ページに刻まれることになった。
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呪われた事件

アルプスのミイラ「エッツィ」の呪い

 1991年9月19日、イタリアとオーストリアの国境近く、標高3200メートルのアルプスの氷河から、凍結しミイラ化したひとつの死体が発見された。そのミイラに関わる悲劇とは?
 調査の結果、このミイラはなんと5300年も前の人間の死体だという事実が判明した。かのツタンカーメンよりも古い、世界最古のミイラの発見である。凍結していたため、保存状態もきわめて良好だった。

 ミイラは、発見された場所エッツ渓谷にちなんで「エッツィ(またはアイスマン)」と名づけられた。エッツィ発見のニュースは、あっという間に全世界を駆けめぐった。5300年前といえば、新石器時代である。これほど昔の人間がほぼ完璧な形で、われわれの目の前に現れたのだ。この事件は、まさしく考古学史上の大発見だったといえる。

 エッツィのミイラはいま、発見された場所に最も近いイタリア、ボルツァーノ市の南チロル考古学博物館に展示され、年間30万人もの観光客を集めているという。だが・・・・・、エッツィがここに至るまでには、実は恐ろしい悲劇が繰り広げられていた。そう、彼に関わった人々が7人も命を落としていたのだ。「エッツィの呪い」と名づけられたその悲劇とは、いったいどんなものだったのか?

 最初の犠牲者は、法医学者のライナー・ヘン博士だった。彼は氷河の中から見つかったエッツィを、素手で遺体袋に移した人物だった。1992年エッツィに関する新しい発見を学会で発表すべく、車を走らせていた矢先、事故を起こして死亡した。

 次いで、エッツィ発見当時、研究班のガイドをしていた登山家のカート・フリッツが慣れ親しんでいたはずの登山ルートで雪崩に巻き込まれて亡くなった。奇妙なことに一緒に雪崩に遭遇した数人の登山家は全員、生存している。実に運悪くフリッツのみが命を落としたのだ。なお、彼は発見されたエッツィを、ヘリを使って麓に搬送した人物でもある。
 さらに、レイナー・ホルツ。彼はドキュメンタリー映画製作のために、エッツィの遺体収容から修復作業の撮影を、ただひとり許可されたジャーナリストだった。その死因は脳腫瘍である。そして、登山家のヘルムート・シモン。同じ登山家の妻とともにアルプス踏破中に、偶然エッツィを発見した人物である。彼は2004年10月、同じくアルプス登山中に行方不明となり。捜索8日目に崖下90メートルに位置で、さながらエッツィ発見時を思わせる薄い氷と雪に包まれて死んでいたという。シモンが滑落死したその場所は、はからずもエッツィ渓谷。そう、エッツィが発見された場所だった。

 5人目の犠牲者は、シモンの遺体を発見したレスキュー隊の隊長ディエター・ワルネッカだった。ワルネッカはシモンの葬儀に出席したわずか一時間後、心臓発作でこの世を去っている。6人目の犠牲者が出たのは、2005年4月。その名前はコンラッド・シュピンドラー。インスブルック大学の考古学教授で、エッツィ調査チームのリーダーである。エッツィに関する本も出版しているエキスパートだ。シュピンドラーの死因は多発性硬化症による合併症だったといわれる。

 そして、同年10月21日。7人目の犠牲者が出た。オーストラリア、クイーンズランド大学の分子考古学者トム・ロイ博士である。ミイラのDNAを研究していた彼は、エッツィの調査をまとめる本の執筆中で、まもなく脱稿する予定だったという。ロイの遺体は死後、数日を過ぎて発見されたが、死因は不明。ただ、この12年ほど血管の病気を患っていたといい、ロイにその症状が出始めたのは、ちょうどエッツィ研究を始めたころだったという。

 発見後、十数年の間に7人もの死者を出した「エッツィの呪い」。ある宗教関係者は現在、博物館に眠るエッツィのミイラについて、次のように語っている。

 「眠りを妨げられた上、自らの体をいじくりまわされ、大勢の人々の目にさらされ、エッツィはおそらく腹を立てているのでしょう。このうえは彼の遺体をすみやかに発見現場に戻し、手厚く葬るべきです。さもないと、エッツィの怒りによる呪いの惨劇は、まだまだ続くかもしれません」

今も静かにエッツィの呪いは続いている・・・
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呪われた事件

呪いの死神ベンツ

 1914年6月28日、ボスニアの州都サラエボで、その後の世界の歴史を左右する大きな事件が起きた。

 その日、サラエボでは、オーストリアのフランツ・フェルディナトンド皇太子とゾフィー妃の歓迎パレードが行われようとしていた。使われた車は、この旅行中に皇太子が特別注文してあつらえた6人乗りの真っ赤なベンツ。夫妻のほかにポチオレック将軍、護衛が同乗していた。

 ところが、いざ出発という段になって、民衆の間から突然、爆弾が投げつけられた。幸い爆弾は車の横腹に当たってはね返ったため、夫妻は無事だった。普通はこんな事件があれば、パレードは中止になるはずだが、なぜかそうはならなかた。

 車はやがて、街の通りに入っていった。するとそこへ突如、ある民家からピストルを構えた若い男が飛び出してきて、車に飛びつくや、皇太子夫妻の体に次々と弾を撃ち込んだ。護衛たちがあわてて男を引きずり降ろしたときには、夫妻はすでに事切れていた。犯人はオーストリアに反感を抱く、セルビア(当時、ボスニアの南にあった国)の民族主義者だった。

 この暗殺事件をきっかけにオーストリアとハンガリーがセルビアに宣戦布告、セルビアは同盟国のロシアに救いを求め、さらにフランス、イギリス、ドイツが次々と参戦する大戦争が始まった。いわゆる第一次世界大戦である。

 ところで、皇太子暗殺事件のあと、問題のベンツは同乗していたポチオレック将軍の所有となった。将軍はオーストリア第五師団長の地位にあり、戦争が始まるとすぐに陣頭指揮に立った。だが、三週間のある戦いで大敗を喫し、本国に召還されてしまう。将軍は結局、この屈辱に耐え切れず、精神状態に異常をきたした。そして、救貧院に入ったまま生涯を閉じた。

 そして三番目のベンツの所有者は、ポチオレック将軍の参謀を勤めていたスメリア大尉だった。しかし大尉もまた、車を手に入れてからわずか九日後、ドライブ中にふたりの農民をひき殺し、自らも車もろとも立ち木に衝突、首の骨を折って死んでしまったのである。

 こののちベンツはしばらく所有者がないまま放置されたが、大戦が終わると、ボスニアに代わって生まれたユーゴスラヴィアの州知事のものとなった。彼は壊れていたベンツを修理したのち改造を施し、悦に入っていたが。だが、運転を始めると四ヶ月間になんと4回も事故を起こし、ついに右腕を失うことになってしまった。恐ろしくなった州知事は、「この車には、死神が取り憑いている」と解体を命じた。 

 しかし、そこにサーキスという医師が現れ、ほとんどタダ同然の値段でこれを買い取ったのだ。しかし半年後ベンツが溝で横転しているのが発見された。サーキスはその下でぺしゃんこになって息絶えていた。

 六番目の所有者は、オランダの宝石商。このころにになると、ようやくこの車がもたらす災厄が評判となり、宝石商は俄然、人々の注目を浴びることとなった。一年後、その期待に応じるかのように、彼は突然、自殺を遂げたのだった。

 次にベンツの所有者になったのはある医師だったが、患者が寄りつかなくなったとのことで、スイスのレーサー、サミレスに売られた。サミレスは呪など信じないたちで、すぐさまその車でアルプスのレースに参加した。しかし、車は途中で横転し、サミレスは車外に投げ出され、障壁に激突して即死してしまったのだ。

 九番目の所有者となったドイツの実業家もまた、石壁に衝突して命を落とした。ベンツを手に入れてから、わずか二日後のことだった。

 さすがにここまでくると、もはや買い手はつかない。呪われたベンツは業者の間を転々としたあげく、何の因果か再びサラエボに戻った。そして農場主のコルシュが、物好きにもこれを買い取ったのだ。コルシュはいわくつきの車であることから、注意深く運転し、数ヶ月は何事もなく過ぎた。それがある朝、ベンツが急に故障してしまったのだ。仕方なく、通りかかった荷馬車を呼びとめ、町まで牽引してもらうことにした。ところがイグニッションを切り忘れていたため、牽引されたとたん、車のエンジンが始動。車は荷馬車を弾き飛ばして暴走したあげく、道路下に転落した、コルシュはもちろん、荷馬車の農夫までも、巻き添えを食らって即死したという。

 壊れたベンツは自動車修理工場に運ばれ、経営者のヒルシュヘルトがそのまま所有者となった。といっても、いわくつきの車である。フルシュヘルトもさすがにそのままでは乗る気になれない。そこで厄落としのつもりか、ベンツの色を赤から青に変えた。

 だがそんな小細工は、かえって車の呪いを助長するだけだったらしい。ある日、友人四人を乗せドライブに出かけたフルシュヘルトは、途中で前の車を追い抜こうとしてスピードを上げた。そのとたん、ハンドルを取られて側壁に衝突してしまったのだ。彼はむろん、同乗していた友人四人までもが無惨な最期を遂げた。

 こうして”死神ベンツ”の名をほしいままにしてきたこの車はこののち、オーストリア政府に接収され、ウィーンの博物館に贈られた。だが、第二次世界大戦中に連合国の爆弾によって博物館とともに、あとかたもなく破壊されてしまったという。 

 アナタの車は大丈夫ですか?
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呪われた事件

第二次世界大戦は呪殺戦争が行なわれていた

 世界史の中で決して忘れてはいけない第二次世界大戦・・・ その多くの犠牲を出した戦争の裏側にもう一つの戦争があったことを本日は紹介しましょう。

 1939年に始まり1945年にようやく幕を閉じた第二次世界大戦。実は、極めてオカルト的な側面が強いものだったといわれる。例えば日本では、軍部の命令により、国内の多くの神社や寺で『鬼畜米英』に対しての調伏が行なわれたことは、よく知られている。

 ある僧侶は当時の様子を先輩達から、次のように聞かされたという・・・第二次世界大戦末期、ある有名な寺で敵国殲滅(せんめつ)の祈祷をしていたら、満願の日に護摩堂が炎上したそうだ。それを見た阿闍梨(あじゃり)(真言宗や天台宗における高僧)が、『これは敗けだな』と言ったらしい。まぁ 護摩堂が焼けたから敗けたのではなく、そうした現象を見て戦争の行方を占ったということだろうね

 周知のとおり、護摩堂とは密教の秘法である『護摩』を行なうところである。不動明王や愛染明王の像の前に護摩壇を築き、大勢の僧侶が護摩木を焚きながら、アメリカやイギリスの調伏を祈祷する・・・ それだけでは収まらず、日本はそれらの国の特定個人に狙いを定めて、呪殺を試みていたという・・・

  ダグラス・マッカーサーをはじめ、大統領や主相もターゲットにしている。千葉県のある寺では、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの調伏を担当したという。なお、調伏との因果関係は不明だが、ルーズベルトは大戦の終結を間近にした1945年4月12日、急逝している。ちなみに、そのルーズベルト自身も実は熱狂的に占星術を信じていた。当時の副大統領の日記には、ルーズベルトが占星術師に戦局をたびたび占わせていたことが記されている。

 ドイツの総統アドルフ・ヒトラーも呪殺を行なう一人として有名だった。

 ドイツの総統アドルフ・ヒトラーも御用占星術を雇い、オカルト結社とも密接な関係をもっていたことは、あまりにも有名な話である。事実、ヒトラーの政策そのものが、黒魔術に精通していないと理解できないとも言われている。

 彼の崇拝者であるヘルマン・ラウシェニングは、その著者『ヒトラーとの対話』の中で、次のように記している・・・ 『ヒトラーは夜になると、kらだを痙攣させ恐ろしい叫び声をあげながら目を覚ますことがあった。体をぐらつかせながら『ヤツだ!ヤツがやってきたのだ!』と、わめきたてた。唇は真っ青になり玉のような汗が流れ、早口で何の意味もない数字を呪文のように唱えていた』

 彼自身の中に潜在していた恐怖や罪悪感がこうした振る舞いを見せたのだろうか・・・ ヒトラーは1945年4月30日、妻となったばかりのエバ・ブラウンとともに自殺し、真相は闇へと葬られた・・・

 ともあれ、当時、国の運命を左右していた人々が物理的な方法で戦争をするかたわら『呪殺』や『怨念』が属する闇の世界においても見えないもう一つの戦争を繰り返してたには紛れもない事実である。
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呪われた事件

英雄ナポレオンの呪い

 「ナイルの海戦」をご存知だろうか?18世紀末、当時29歳の常勝将軍ナポレオン・ボナパルト指揮下のフランス艦隊が、イギリス艦隊の奇襲にあい、大敗を喫した、史上名高い戦いである。その戦いで沈没したフランス艦船の引き上げのさい、おきた不可思議な出来事についてお話します。

 3万2千の大軍を率いてエジプト遠征の途につたナポレオンは、エジプト軍と戦いながら、ナイル川河口の都市に上陸し、陸路、カイロを目指して進軍した。

 ところが、この間、湾内で待機していた17隻からなるフランス艦隊は、なんと、イギリス軍の14隻の艦隊の奇襲をうけフランス側は4隻が沈没、戦場から脱出した4隻を除いて、実に9隻がイギリス軍に拿捕された。

 ちなみに、イギリス艦隊は撃沈された艦船は1隻もなかった。この海戦の結果、地中海の制海権は完全にイギリスのもになった。ナポレオンにとって始めてのつまづきであった。

 地中海の藻屑と化した4隻のフランス艦隊・・・・・・・。

 実は、この艦船の引き揚げようという試みは何度か実施されたが、サルベージ船が遭難したり、沈没現場を間違えたりでいずれも失敗している。

 本格的な引き揚げの試みは、フランス、エジプト両政府が正式に合同で作業にとりかかることになった。

 深さ12メートルの海底から、まずは装備品や銃、乗組員らの小さなものを引き揚げ、最終的には艦船そのものの浮上を試みる・・・・・・。

 海が急に荒れはじめ、サルベージ船の乗組員が海に投げ出されそうになったり、エジプト考古庁の責任者がエジプト海軍の艦船からサルベージ船に乗り移ろうとして、両船の船体に体を挟まれたり・・・・・。ダイバーの命綱が切れたり、ブイが消失したこともある。いずれも原因不明である。

 気味の悪い出来事もあった。艦船内の搭載品をホースで吸い上げようとしたところ、2百年以上前に海戦で死んだ乗組員の片足が吸い込まれてきたのだ・・・・・。

 そして、海底発掘作業の第一人者のエジプトのベテランダイバーが海底で作業を終えた後、船内に戻った。そして浴室に入ったあと心臓発作で死亡した。

 また、引き揚げ作業のチーフを務めたフランス人ダイバーが旅行中に心臓発作で死亡。直後、エジプト人作業員が引き揚げた大砲の下敷きになって死ぬ事故まで起きた。

 こうなると、周りの人々は「ナポレオンの呪いに決まってると!」。あるエジプトの考古庁の人物も「海の墓はナポレオンの呪いであふれてる。艦船引き揚げ作業は、不幸な結果を見るかもしれない・・・・・」

 そして、引き揚げ作業はとうとう中止された。ところが、1年後にやっと再開された沈没箇所確認作業中、またまた、エジプト人ダイバーが死亡した。

 関係者はダイバーの単純なミスとしたが、ダイバーの親類によると「本人は潜水のプロだ。間違いなど起こるはずがない」と不審がるなど、その死はやはり謎に満ちている。

 
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呪われたホープ・ダイヤの末路

 先日紹介した『フランス王家も滅ぼした呪われたホープ・ダイヤ』について、『フランスの青』と呼ばれたダイヤが、なぜ『ホープ・ダイヤ』と呼ばれるようになり、そのホープ・ダイヤの末路について本日は紹介しましょう。

 1,789年のフランス革命後、再び行方不明となっていたダイヤは、オランダにその姿を現した。宝石研磨師ファルスの手に渡り、44カラットに再研磨された。ところが、ファルスの息子がこのダイヤを父に断りもなく勝手に売り飛ばしてしまったのだ。ダイヤの呪いはフランス王家を滅ぼしても、その効力を弱めていなかった。ファルスはダイヤを失ったショックで死亡。息子は精神に異常をきたし自殺・・・ 買い取った相手も食べ物を喉に詰まらせ命を落とした。

 その後、いくつかの変遷(へんせん)を経て、ダイヤはイギリスの銀行家で大富豪のエンリー・ホープの手に渡った。彼はこの不吉な宝石にまつわる祟り話を、ただの偶然の一致、呪いなんか存在するわけがないと一笑に付した。そして自らの名字と『ホープ=希望』をかけて、この宝石を『ホープ・ダイヤ』と名付けた。これが『ホープ・ダイヤ』と言われる由縁である。しかし、ダイヤはホープに希望どころか災厄しかもたらさなかった。ある夜、ホープ家は火事を出し、それによって家人の何名かが焼死してしまい、ホープの事業も傾き、ホープ家は破産した。

 そして1,911年、『ワシントン・ポスト』紙オーナーの後継者エドワード・B・マクリーンが、ある宝石商からこのホープダイヤを手に入れる。するとマクリーン夫婦の押さない息子が交通事故で死亡、ほどなくして娘も橋から落ちて水死。夫婦の生活は破綻し離婚。マクリーン自身は一連の衝撃的な出来事に加えて、酒好きも相まって精神に異常をきたし、精神病院に入院中命を落とす。

 最後にホープ。ダイヤを入手したのは女性なら一度は手にしてみたい最高級宝石で有名なハリー・ウィンストン。そのハリー・ウィンストンその人である。

 ニューヨークの宝石商だったハリー・ウィンストンは約1億2,000万もの大金でこのダイヤを購入したが、購入後、交通事故に4度遭遇し、事業にも失敗し個人破産してしまったのだ。1,958年、たまりかけたウィンストンは、ホープ・ダイヤをワシントンのスミソニアン自然博物館に寄贈することにした。その際、ウィンストンはとてつもない値段で購入したホープ・ダイヤを、なんと普通の郵便小包で送ったという。

 現在、同博物館にある44カラットのホープ・ダイヤは、豪華なネックレスに改造されている。(本日のトップの画像がそうである。)もはや呪いをもたらすことはなく、同博物館の人気展示品となっている。

だが、気になることが一つだけある・・・

 当初、279カラットもあったはずの巨大なダイヤも、スミソニアン博物館に展示されてる現在は、わずか44カラットの大きさである。いくら長い歴史の中で研磨を繰り返したとしても、小さくなりすぎである。残りの約230カラットは一体どこにいったのか・・・

 残りのホープ・ダイヤが、闇の中から姿を現したとき、現世に新たなを『呪いの歴史』つくるだろう・・・
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フランス王家も滅ぼした呪われたホープ・ダイヤ

 女性で嫌いな人はまずいないでしょう。光り輝くジュエリー。そんな中でも一番輝きが美しい一つのダイヤの物語について本日は紹介しましょう。

  9世紀頃のインド。西北部にあるガット山脈のバルカット峠。そのふもとにある畑で、一人の農民が畑を耕していたところ、クワの先に何か硬いものが当たった。農夫が掘り起こしてみると、それは青く光輝く透明な石だった。

 何かの宝石のように感じた農夫はその石を町の宝石商の元に持ち込んだ。鑑定の結果は驚くことに279カラットもあるダイヤだというのだ。農夫は偶然見つけた大粒のダイヤに心を躍らせ喜んだ。

 だが、この美しいダイヤ、所有者に恐るべき災いをもたらず『呪われたダイヤ』だった。

 当然、最初の呪いは農夫に降りかかった。あるとき、農夫の住む村にペルシアの軍隊が攻め入った。そのとき農夫は司令官にダイヤを奪われてしまうのだが、絶対に話すまいとしっかと握りしめていた農夫に業を煮やし、その司令官は腕を切断してしまった。

 第二の犠牲者は当然ながら、その司令官だった。彼は帰国後、ダイヤを王に謙譲し、王からの恩恵を受ける。司令官自身はのちに親族の犯した罪の責任を取らされ、処刑されてしまう。そして、ダイヤを手にした王も、部下の謀反にあって暗殺されてしまった・・・

 こののちしばらく、呪われたダイヤは歴史から姿を消す。しかし、時代は流れ17世紀、インドにて再び呪われたダイヤは姿を現す。
 
 あるとき、フランスのダイヤ商タベルニエは、インドの古い寺院を探索していた。すると、古びた仏像の上部で、何かが光り輝いているのに気付いた。見てみると、それは額にはめ込まれた巨大な宝石だった。青く澄んだ宝石が放つその光は、どう見てもダイヤだった。タベルニエは逡巡(しゅんじゅん)のすえ決心した。

 彼はなんと、ダイヤを仏像の額からはぎ取りフランスへ持ち帰った。フランスへ持ち帰った彼は当時の国王であるルイ14世に献上した。喜んだ国王は大金をタベルニエに与えた。だが、タベルニエはその後、ある事件に巻き込まれ、国王から得た大金を全て失い、諸国を彷徨ったすえ、ロシアに流れつき、狼に食われ生涯を閉じたといわれている。

 一方、国王にも過酷な運命が待ち構えていた・・・

 当時のフランスは『太陽王』と呼ばれたルイ14世の統治下、絢爛(けんらん)豪華で知られるバロック時代の絶頂期にあった。その権威を象徴するかのような巨大なダイヤを手に入れた国王は、それを研磨させ新たに69カラットのハート形へと生まれ変わらせた。そして、儀典用のスカーフに飾りつけた。

 だが『フランスの青』と呼ばれることになったこのダイヤを長く愛でることはなく病死する。そして、国王の死が引き金になったのかのごとく、これ以降フランス王家の没落が始まったのだ。

 太陽王の死後、それまでの国庫金の濫費(らんぴ)が祟って王家は財政難に陥り、急激に衰退の一途をたどる。それから約80年後、革命の嵐がフランス中に吹き荒れ『王家の青』を受け継いだルイ16世と王妃マリー・アントワネットを、ギロチン台へと送ることになる・・・

明日は『呪われたダイヤ』の末路を紹介いたします。
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実在した狼男

 満月を見ると狼男へと変わる・・・ 皆さんが思い描く狼男像だと思います。 あくまで空想の世界・・・ いえ、歴史を振り返ると実際に狼男は存在したんです。本日は実在した狼男のことを紹介しましょう。

 1,589年、ドイツ高知のコロン近くのベドブルグで、ペーター・シュトンプという男が捕らわれて処刑された。処刑されたシュトンプこそ狼男であり25年もの間、人間を殺しては、その血を吸い、肉をむさぼり食ったのである。

 ペーター・シュトンプは悪魔に魂を売り渡し、彼に身につけると狼に変身することができる『狼の毛皮で出来た腹帯』を与えたのである。

 こうしてペーター・シュトンプは残虐な狼男としての道を歩み出した。人里離れた野原を一人で歩いている人間を見つけると、ただちに狼男へと変身襲いかかり、そのノドを裂き、肉を噛み砕き、骨をバラバラにしてしまうのだった。 しかし一方では、時折ベドブルグの街をきちんとした身なりで歩き、顔見知りの人間に礼儀正しく挨拶し普通の生活を送った。しかし、これにも目的はあり、自分の餌食になりそうな女や子供を物色していたのである。恰好な獲物が見つかると人ごみから孤立する瞬間を待ち、すかさず襲いかかり、野原に引きずりこんで凌辱した。その後は、狼男へ変身し、心ゆくまで相手の体を噛みちらし、残忍な欲望を満たしていたのである。

 いつどうやって結婚したかは不明だが、ペーター・シュトンプには一人の美しい娘がいた。名をビールといい近所でも評判の美人だった。しかしペーター・シュトンプは実の娘にまで、自分の異常なまでの欲望を抑えることができなかった。不幸なことにビールは妊娠してしまい、子供が生まれてしまった・・・ ペーター・シュトンプの異常なまでの欲望は実の妹に対しても向けられた。妹はキャサリンといい美人だったが、その肉体を襲って暴力的なものにして以来、キャサリンはすっかり彼の奴隷同然になってしまった。

 ペーター・シュトンプは25年もの間、人目をくらましながら殺害行為を続け、無数の男女や子供が彼の異常な欲望の犠牲となった。ベドブルグ界隈の住民は、いつ自分が狼男のされるかと、日々おびえて暮らしていた・・・

しかし、ペーター・シュトンプもついに最後の時を迎えることになる。


 猟犬を引き連れた武器を持った捜索隊に森の奥に追い込まれる。彼は牙を向き、吠え、四つん這いで逃げ回り、力つきるまで人間離れした体力を見せた。しかし、観念したペーター・シュトンプは『狼の毛皮で出来た腹帯』を外した。 すると、そこには狼男の姿は消えペーター・シュトンプの姿が現れたのである。

 捕らわれたペーター・シュトンプは、拷問にかけられたすえ、過去の一切の犯行を告白した。そして、どんな魔法を用いて悪魔から帯を手に入れたのかも告白した。その、『狼の毛皮で出来た腹帯』は逮捕されたときに谷に投げ込んだと言ったので当局は探させたが見つかることがなかった・・・ ペーター・シュトンプは牢に閉じ込められ、彼の娘のビール、妹のキャサリンもペーター・シュトンプの悪行を知りながら、それを手助けしたと判断され、ペーター・シュトンプと共に殺人罪に問われ有罪を宣告された。

 1,589年10月28日、ついに次のような判決が下された。ペーター・シュトンプは、主犯として、まず体を刑車に縛りつけ、真っ赤に熱した釘抜きで10箇所以上の骨から肉を剥がす。その後、脚と手を斧で砕き、頭を体から切り離し、死体は灰になるまで焼く。ビールとキャサリンも同日同刻火刑に処し、灰になるまで焼く。 そして同月の31日、ベドブルグの町で、ドイツの王子をはじめ、多くの見物人の前で彼ら3人の処刑が執行された。

 ペーター・シュトンプが谷に捨てたと言われる『狼の毛皮で出来た腹帯』・・・ いつかまた誰かの手に渡り歴史的虐殺が繰り返されるかもしれない・・・
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